R.I.P. Kocsis Zoltán

〔コチシュの訃報〕

ブダペストに住んでいた頃、ブダペスト2区の小高い丘に建つコチシュの自宅で演奏を聴いてもらった。2台のスタインウェイのフルコンサートサイズが部屋の中央で勾玉のように組まれ、書棚が楕円状に囲う空間は、まるで映画のワンセットだった。彼は「先生ではなく観客だ」と言い張っていたので、私も彼のことを先生と呼ばないように努めたが、彼のレッスンは数時間に及ぼうが、私の持っている楽譜をすべて「完璧に」弾いてみせ、あるいは初見で音楽の全容をつかんでみせた。私に何かを助言することはなかった。ただ私が弾いた後に、部分的に弾いてみせるだけだった。しかしそれだけで、楽曲の構造は言うまでもなく、演奏技術の構造までもが明らかになって見えたのだ。

私は今回の本を書くのにあたって、日記を数十冊にわたって読み返した。2006年から2年間は、コチシュのレッスンでの詳細はもちろん、彼の表情やジェスチャー、聴きに行ったリサイタルや彼にまつわるニュースまで、びっしりと書き留めてあった。断片的な記録をつなぎ合わせて回想すると、芸術家としての偉大さと同じくらい、気難しいがユーモラスで、チャーミングなコチシュの人間性が現れてくる。

彼はドビュッシーの歌曲を棚から取り出し、「オーケストラのために編曲したいが、お前なら何の楽器を当てるか」という質問をした。アルトサックスで答えが一致した後、彼は管弦楽用に編曲したばかりのフルスコア(リストのマイナー作品)を私に手渡し、玄関口でクリスマスの飾りつけをしていた彼の息子と一緒に見送った。次のレッスンを約束せずに帰ったので、それが彼と話した最後となった。

それから10年が経ち、今朝私のもとにもコチシュ・ゾルターンの訃報が届いた。死の知らせはいつも突然やって来る。ハンガリー国民の悲しみの大きさを考える。彼らの喪失感を埋める言葉はどこにも見当たらない。

.07 2016 諸藝雑記 comment(-) trackback(-)

Gemma Bertagnolli & Tomoko Okada at Nikkei Hall

1/9/2016(東京)
「ジェンマ、あなたには一体いくつの声があるの?」と問いたくなるほど、ベルタニョッリは完璧なまでの発声と技巧の限りを尽くして、それぞれの作品の主人公になりきっていました。モーツァルトの『すみれ』を最初に持ってくるあたりで、実力の程はおよそ察しがつきますが、ヘンデルのアリアやR.シュトラウスの歌曲は、もはや常人の手の届かない世界での出来事に思われました。同じ表現者として羨ましくもあり、こっぱ微塵に打ち砕かれた感も否めません。

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SPO with Eliahu Inbal at Seoul Arts Center

24/8/2016(SEOUL)
ソウル・フィルハーモニー管弦楽団との確執が伝えられているチョン・ミュンフンの姿は、いつもの指揮台にはいませんでした。チョンのようなストイックな音楽作りと真逆の、エリアフ・インバルが急遽代役となり、ユジャ・ワンの代わりにオルガ・カーンがピアニストに迎えられました。彼女がソリストを務めた『パガニーニの主題による狂詩曲』は、『コレルリの主題による変奏曲』とのシンクロ二シティを意識させる演奏で、ラフマニノフのテクスチャの巧みさを浮き彫りにするピアニズムを存分に発揮しました。しかし一時期のエフゲニー・キーシンがそうだったように、ピアノを弾くことが上手すぎるゆえに、作品の内部に到達できないという皮肉な結果を引き起こすことがあります。前世紀の大時代的な音楽作りはもはやトレンドではなく、ハイブリッドな感覚を有した演奏が主流なのかもしれません。最近の国際コンクールでも似たような傾向を感じていますが、まだ私自身はその潮流に乗り切れていません。感動の所在がどこにあるのかは、時代によって異なるかもしれませんし、感動の質自体の変化も否めません。私にとってはむしろ、大雑把に見えるインバルがブラームスの交響曲第2番で見せた熟練技に大きな歓喜を覚え、音楽の持つ生命力に深く共感することができました。

 
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YNSO with Sylvain Cambreling at Suntory Hall

29/6/2016(東京)
ハープが柔らかなアルペッジョを奏で始めると、「私はこの世に忘れられ」(リュッケルトの詩による5つの歌曲)がゆっくりと姿を現します。ハープは天上で響く楽器ですから、ヘ長調の美しいトニックで一音ずつ下降してくると、天蓋から細い光が差し込んでくるような崇高さと幸福感で胸がいっぱいになります。第4楽章はマーラーの交響曲第5番における奇跡的瞬間。神秘の泉で水をすくうかのように、どの一音も聞き逃したくはない。そう思いながらピアノ独奏編を収録した(https://youtu.be/gt8lYyp2BOQ)ことがありますが、音楽で永遠を感じることができるとしたら、アダージェットというテンポがまさにそれです。私にとってのマーラーは(ニーチェ的にいえば)ディオニュソス的なるものなので、今宵のシルヴァン・カンブルランの指揮は驚くほど淡麗なアプローチに感じられ、音が粘らない分だけ拍感は前進的で、アンサンブルの精度を保つのが大変だったように見受けられました。それでも68分はあっという間に過ぎ、マーラーの宇宙観を描くには短すぎる時間なのです。

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Lecture by Ton Koopman at MUZA Kawasaki Symphony Hall

28/6/2016(川崎)
「バロック時代の靴に足を入れてみること」というトン・コープマンの言葉は、音楽学者ではない演奏家としての肉声であり、その力強いメッセージを直接聞けたことは豊かな糧でした。小学生のある一時期だけ、ピアノを離れてチェンバリストに師事したことがあるのですが、「なぜグレン・グールドなのか」という問いに対するバロック側の回答が(やや逆説的にも)コープマンの演奏でした。チェンバロで弾かれる装飾の自由に心を奪われ、様式の内に同居する即興性からバロックの愉しさを教えてもらいました。『トン・コープマンのバロック音楽講義』はセミナーでも時々紹介するテキストですが、今日対談された鈴木雅明氏が留学中に使われていたというオランダ語版を持参されており、些細と思われるようなこともこだわるほどにバッハの人物像や音楽観が現れてきて、どのようなエネルギーが作品に注がれたのかを感じ取ることができると力説されました。そして「演奏は人に属するもの」という言葉はコープマンと異口同音に響き、バッハに近づこうとする偉大な演奏家の姿を見せていただきました。全ての音楽人に聞いていただきたかった講座。

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Jean-Guihen Queyras at Suginami Kokaidou

22/6/2016(東京)
ジャン=ギアン・ケラスがバッハの無伴奏チェロ組曲を全6曲演奏しました。譜面台を立てずに、私たちとの対話を続けた2時間。様式化された伝統が大きな翼となり、自由に飛躍することができる使徒のように見えました。待ってました!の第6番は至福のニ長調。本来は通奏低音楽器として一本のバスラインを奏するチェロから高度な対位法様式の音楽を引き出している点で、また高音のE弦を加えた5弦楽器(一説にはバッハが考案したヴィオラ・ポンポーサ)に書かれたとされることからも、演奏至難の作品といわれますが、ケラスはさらに天衣無縫を極め、舞い始めた音がバロックの胎内で新しい生命を創造していきました。モーゼの杖はエジプトの海を切り開いて未来を示しましたが、バッハは馬の毛を張った細い弓をもって、生命の神秘を解き明かして見せるのです。そして使用楽器は1696年ジョフレド・カッパ製。作曲家の生きた時代から今日に至るまで、変わることのない創造の奇蹟を地上に響き渡らせてきた楽器なのです。
http://ebravo.jp/archives/26246

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TMSO with Kazushi Ono at Tokyo Bunka Kaikan

8/6/2016(東京)
イアン・ボストリッジを追っていると、必ずブリテンの名演に立ち会う幸運を得ます。最後の音が聞こえなくなった後も大ホールが静寂で微動だにしなかった『戦争レクイエム』(1月15日@すみだトリフォニーホール)から束の間、今回の『イリュミナシオン』では、歌い上げられたアルチュール・ランボーの短い人生が白昼夢のように、しかし確かな熱さを伴って感じられました。ランボーはフランスが生んだ天才詩人です。普仏戦争とパリ・コミューンで揺れるフランスに彗星のごとく現れ、燃え尽きるように生きた激動の半生と彼の文体は、あらゆる詩人に衝撃を与えました。アンリ・ド・レニエもそうした一人で、そのレニエの詩情に和音を乗せたドビュッシーは、印象派の名に相応しい色彩感で『雲』を描きました。今日の東京都交響楽団はまるでフランスの管弦楽団が響かせるような発音で、彩度の変化を鮮やかに描き出しました。主音を抜くことで得られる和声の浮遊は、スクリャービンのキーワードでもありました。重力の世界での浮遊を実践したドビュッシーに対し、スクリャービンは大気圏を突き抜けて宇宙空間に達しようと試みたのですが、あれほど太陽の引力に魅せられた作曲家は他に見当たりません。迫り来る熱のうちにすべてが溶けてしまうという妄想に取り憑かれたまま、まもなく自らの肉体が夢と共に燃え尽きてしまいました。スクリャービンは神秘和音と複合リズムという翼を得たイカロスでした。私たち日本人にとっての『法悦の詩』はむしろ「まさに刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏にかくやくと昇った」という三島由紀夫の一行に凝縮されるでしょうが、宇宙を初めて有人飛行したガガーリンがその後どうなったかを思い返す時、この交響曲で鳴り響くサウンドは、同時に警鐘のようにも聞こえてくるのです。今宵のマエストロ大野和士によるプログラミングは、陰影に富んだ物語だったという以上に、熱狂が持つネガティブな余韻で色濃く織り上げられたドラマで、人間の内側を覆う闇をもって夜の帳が下ろされました。
http://www.tmso.or.jp/j/topics/detail.php?id=1016

 
.08 2016 諸藝雑記 comment(-) trackback(-)

Hilary Hahn & Cory Smythe at Tokyo Bunka Kaikan

7/6/2016(東京)
銀幕の向こうから出てきたかのような、女優の佇まいを持つヒラリー・ハーン。彼女がヴァイオリンを構える立ち姿は、ベラスケスの描いた王女マルガリータがそのまま大人になったような趣があります。それ故に、彼女の演奏だけはコンサートホールの正面席で聴くようにしています。奇をてらうようなボーイングを見せるわけでも、独特のこぶしを入れるわけでもなく、むしろ健康的な拍感と大きなフレージングによる堅実なアプローチで聴かせるタイプですが、彼女の佇まいがそのまま音となって現れてくるので、やはり特別なヴァイオリ二ストです。聞き慣れたバッハのフーガでさえ、今この瞬間に生まれたばかりの雛鳥のような初々しさを見せます。堅牢な中にしなやかさを宿すのが、ハーンの最大の魅力。また、彼女のコンサートでは必ず新しい音楽(作品)との出会いがあります。新しいレパートリーを求めて現代の様々な作曲家に新作を委嘱しているので、毎回のコンサートが過去と未来のクロスオーバーとして響きます。旅する彼女のヴァイオリンケースを追いかけると、まだ見知らぬ世界を訪ねることができるのです。
http://hilaryhahn.com / https://twitter.com/violincase

 
.07 2016 諸藝雑記 comment(-) trackback(-)

Gidon Kremer & Lucas Debargue at Suntory Hall

6/6/2016(東京)
政治的なものに脚色されていない芸術的価値として真っ向から提示する。ギドン・クレーメルの姿勢は、10年前にアムステルダムで聴いた時から何も変わっていません。彼がショスタコーヴィチをめぐる作曲家やバルト3国を中心としたポスト・モダニズムの音楽家を紹介することで、私たちはその政治的ニュアンスを超えた「時代そのもの」を聞いてきたと言えるでしょう。ロストロポーヴィチが亡くなった時、同じ建物に住んでいたメズー・ラースロー先生(バルトーク弦楽四重奏団チェロ奏者)が「大きな星が去った」と知らせに来たのを思い出します。ブーレーズやアーノンクールもこの世を去りました。アルゲリッチは75歳になり、クレーメルも来年で70歳を迎えます。時代に立ち向かうことで「時代そのもの」になった彼らの生き様は、まさに最後の巨星というのに相応しく、演奏の素晴らしさをはるかに凌駕する感動にとらわれるばかり。そして付け加えるべきはピアニストを務めたルカ・ドゥバルグの件で、彼は昨年のチャイコフスキー国際コンクール入賞で有名になった異色の経歴からは想像もできないくらい、伝統的な奏法に立脚した正統派の天才です。テクスチャの読み込みは熟練した指揮者のごとく、20代半ばにして往年の巨匠たちの解釈を我が血肉としているようです。ピアニストの系譜に眩しいばかりの新星が誕生しました。

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Maurice Bourgue, Keisuke Wakao and his friends at Kioi Hall

1/6/2016(東京)
モーリス・ブルグ&若尾圭介、そして各楽器の名手たちが加わった至高の室内楽。夢のような時間でした。かつては私もパリで室内楽の仕事を一手に引き受けており、名教授たちのレッスンに出入りして、同じような時間を過ごしていたはずですが、楽譜と生活自体に追われていた当時はそのような環境を楽しむ余裕がありませんでした。それでもフランス6人組が常に傍らにいて、ジャン・コクトーの言葉に導かれ、リード楽器の音色に乗ったエスプリと共にあったエトランジェ(異邦人)の一人だったことは確かです。帰られるものなら帰りたい、永遠の青春がパリにあります。彼らの演奏(時代と作曲家と奏者の完全なる調和)を聴きながら、何よりも羨ましく、ロジャー・シャタックの「自分の影を見失うまいとして、身体を捩じったまま歩く子供のように、サティはとくに大切な過去はいつも手の届くところに置いておいた」という言葉が反芻されました。
http://www.kioi-hall.or.jp/20160601k1900.html

.01 2016 諸藝雑記 comment(-) trackback(-)

TMSO with Kristjan Järvi at Suntory Hall

18/5/2016(東京)
外の世界を覗いてみたい年齢になった時、私はヘッドフォンの中でリヒャルト・ワーグナーとスティーヴ・ライヒを往き来していました。ちょうど『ディファレント・トレインズ』が日本に入ってきた頃でしょうか、YMOで馴れた耳にはあまりに衝撃的で、拍感のない単調なリズムの中でわずかな位相ズレを起こしながらセクションを形成していくフェイズ・シフティングに、脳は飲み込まれるような快感を味わっていました。クラシック音楽の思想的様式や道徳観を見事に蹴散らし、同時代というものを体感させてくれたのが、ライヒでありフィリップ・グラスでした。同時代を生きているという所属意識は、何かを考えたり行動したりする時に便利に働きます。混沌の中では磁針となり、漠然ながらも向かう方角を示してくれます。ですから、彼らがなぜ最小単位の作曲語法にこだわったのかを検証するよりも前に、私たちはその圧倒的なパルスから(薄々と)何らかのメッセージを感じ取ってきたわけです。その点でライヒと1歳差のアルヴォ・ペルトは、同じ前衛の時代を駆け抜けたとはいえ、ミニマルがパルスにはならず思想的に響くので、やはりヨーロッパという伝統に帰属する音楽家なのでしょう。いずれにせよ、すべては過去の話です。60年代から吹き荒れた前衛の時代は終わり、存命あるいは没後の作曲家も今生きているのは現在という時代ですから、東京都交響楽団が取り上げた今晩のプログラムは「古典」(クラシック)ということになります。クリスチャン・ヤルヴィによる渾身の歴史的快演でしたが、ざわめいた心も一晩経てば、明日の感動に取って代わられるのが、現在の都会で生きるということ。毎夜のように手を替え品を替えて回っているのが東京ですから、ここは砂漠のようなすごい街です。
http://www.tmso.or.jp/j/topics/detail.php?id=1028

 
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TPO with Andrea Battistoni at Suntory Hall

16/5/2016(東京)
音楽は光を受けなければなりません。光を受けた音は道を示し、私たちに様々な情景を見せます。とりわけ長い歴史を抱くイタリアは、多くの街道を築き、人を送り続けてきました。リソルジメントの機運が高まる中でヴェルディはミラノに向かいましたが、一方でレスピーギはカトリックに導かれるようにローマに留まり、グレゴリアンの音を見い出しました。思い出すべきは人間の男と女のオリジナルを忠実に描き上げたフェデリコ・フェリーニ監督の『道』で、この作品自体が一つの真実の街道なのかもしれません。フェリーニの描くヴェズリモに乗ったニノ・ロータは、その道すがらレオンカヴァッロの影を追ったのは間違いないでしょう。いずれにしても、イタリアには永遠から永遠へと続く道があり、尽きることなく溢れ出でる光によって、その並木は夥しい実を付けました。アンドレア・バッティストーニのタクトもその一つ。彼は音楽の使徒として、やがて永遠の存在になるのでしょう。今宵東京フィル。
http://www.tpo.or.jp/information/detail-20160228-02.php

.16 2016 諸藝雑記 comment(-) trackback(-)

Saigyo-zakura & Sumida-gawa at Noh Theater

14/5/2016(京都)
足運びの間合いやその運び方にシテの歩んできた人生そのものが現れるのが、お能の凄いところです。ですから、老桜の精(西行桜)も狂女(隅田川)も元来た橋掛かりを帰っていく時に、得もいえぬ余韻を残します。シテは何かを解決するために舞台(この世)に現れてくるわけではないのですが、幻の者たちと空間を共にしているだけで、「思へば限りなく遠くも来ぬるものかな」という『隅田川』の一節が腑に落ちるのです。時々こうして家人とお能を見ることで、私たちが今歩いている道を感じるようにしています。
http://hayashiteikinoh.com/

.14 2016 諸藝雑記 comment(-) trackback(-)

Dynastic sense of "The Tale of Genji"

9/4/2016(京都)
闇を照らす光が明るいほどに、闇はさらにその色を濃くするもの。バロックの華やかさはその大いなる闇に咲く花そのもので、カストラートの歌声はさぞかし蠱惑的に響いたことでしょう。平安朝に生きた光の君もまた、その華やかさに並行する冥界へと続く暗い道を、一人で歩いていました。今日の海老蔵丈は台詞を多く持たないかわりに、カウンターテナーのアンソニー・ロス・コスタンツォに心の暗部を歌わせ、一方で能をメインに据えて、シェイクスピアやダ・ポンテのテキストを重ねてみせたことによって、精神の二重性が透かし出され、『源氏物語』の夢幻性をより深いものとして昇華させました。日本とヨーロッパの持つ王朝文化が、オペラと能と歌舞伎の融合によって、全く新しい格調の高さを見出した舞台となりました。
http://www.kabuki-bito.jp/theaters/other/play/476

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"Sils Maria" (2014)

22/12/2015(札幌)
人生が一本のエクリチュールであるかぎり、眩暈に導かれ、時間と共に進む道です。そしてその道を歩む時、芸術は残酷な試練を与えます。表現されるものは「切り取られた私」に他ならないからです。「この人びとには、反復する思春期がある」と言ったゲーテは79歳でした。〈過ぎゆく時間〉という終生のテーマに関わる件ですが、今日は『アクトレス 女たちの舞台』(オリヴィエ・アサイヤス監督、2014)を通して、ジュリエット・ビノシュでなければ演じられなかったであろう女優マリア・サンダースの苦悩と葛藤に、このゲーテの言葉の向こう側を見ました。世界を発見する若さは永遠のものではありません。マリアがそうであるように、私たちも若さと円熟の間で宙吊りにされながら、そのステージごとに〈過ぎゆく時間〉の解釈を探している存在なのかもしれません。
http://actress-movie.com

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"FOUJITA" (2015)

18/12/2015(札幌)
『FOUJITA』(小栗康平監督、2015)で描かれた藤田嗣治は、Foujitaでありフジタであり、つまりは(トリスタン・ツァラが「長生きしたダダ」と自称したのに倣うと)「長生きした異邦人」でした。モンパルナスの狂騒時代も東京で迎えた第2次世界大戦中も、藤田は狂乱と孤独を縁取るようにしか生きることのできなかったアイデンティティ不在と向き合いながら、カンバス上に何かを埋めていったのかもしれません。しかし、この映画自体も、映画や書物で思い描く私たちの藤田像も、所詮は虚構なのです。あらゆる藤田の真実は、藤田の作品のみに存在するのであって、それは音楽でも同じ。私たちは対象を追うほどに、深い虚構の森に迷い込んでしまいますが、芸術はそこで美しい幻想を見せて、人間の存在意義を与える点で尊く、それゆえにかけがえのない存在なのです。
http://foujita.info

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Kristian Bezuidenhout (Fortepiano) at Sapporo

17/12/2015(札幌)
2週続けてアントン・ワルターの魔法を聴きました。モーツァルトが高らかな声を上げながら闊歩した当時のウィーンを知ることができる、タイムマシーンのような存在です。限りなく神に近い領域を見ながらも人間の方に戻ってきたモーツァルトは、極めて彼らしい手法で深い陰影を音楽に刻むようになります。オペラや弦楽四重奏曲もまた同じ。今晩はクリスティアン・ベザイデンホウトのフォルテピアノがモーツァルトの深淵を映し出しました(使用楽器はポール・マクナルティによる2002年レプリカ)。その深淵に達した時、自由に解き放たれて戯れているモーツァルトその人がいて、万華鏡世界のように鮮やかな変化を見せるのです。ベザイデンホウト自身のデモーニッシュな天才もまた、モーツァルトの喜怒哀楽を見事にまとっており、光以上に闇の美しさを獲得していました。彼らのディヴェルティメント(嬉遊)は、本質的に私たちから遠いところにあります。そのことに対する私なりのアプローチを、半年後(2016年6月10日)に同じホールで示してみたいと思います。

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VPO with Daniel Barenboim at Wiener Konzerthaus

15/11/2015(Wien)
ハインツ ・フィッシャー大統領による短い演説の後、パリに向けて黙祷が捧げられました。今日のダニエル・バレンボイム&ウィーン・フィルによる交響曲第9番は、この世で見た最も美しく哀しい変ニ長調でした。マーラー自身が「死にたえるように閉じる」と言ったように、フラットを帯びた終楽章(ニ長調から変ニ長調に転化)は、ゆっくりと消えゆく温もりに手を当てるような30分で、何度も嗚咽がこみ上げました。バッハの音楽が神の福音であるならば、マーラーの交響曲は宇宙の摂理なのでしょう。この涙が憎しみを消す一滴となりますように。

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BSO with Andris Nelsons at Teatro alla Scala

1/9/2015(Milano)
「私の『第6番』は、私の最初の5つの交響曲を吸収し、それを真に消化した世代だけが、その解決を企てうる謎を提供するだろう」とマーラーは書簡で書き残しています。物語の楔となるハンマーの打撃は、あらゆる感情が錯綜するこの巨大な交響曲を奮い立たせて、宇宙的な何かまで昇華させます。創造主を想わせるアンドリス・ネルソンスの指揮、そして一糸乱れぬ完璧な統率を見せたボストン交響楽団の神々しさは、私の中で永遠のものになりました。

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Orquesta Sinfónica Simón Bolívar with Gustavo Dudamel at Teatro alla Scala

30/8/2015(Milano)
奏でて戦う (Tocar y Luchar)。このモットーを掲げるシモン・ボリバル交響楽団の圧倒的存在感に、スカラ座が共鳴していました。オール・チャイコフスキーによるプログラムは難曲『テンペスト』で苦難の嵐を予感させ、『ロメオとジュリエット』で愛と死の克服を呼びかけ、交響曲6番であらん限りの「悲愴」に勝利してみせました。火花を散らし、魂をわしづかみにするグスターボ・ドゥダメルのタクトに感動。

.30 2015 諸藝雑記 comment(-) trackback(-)
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特別企画「フィギュアスケートを彩るクラシック」にて執筆しました。また、ベストドレッサー賞の授賞式における演奏についてレポート取材が掲載されています。
 

金沢でのMusic Batonについてレポート取材が掲載されています。
 

2016年の新譜CD《そして鐘は鳴る》(キングインターナショナル)です。
 

初執筆のエッセイ本《赤松林太郎 虹のように》(道和書院)です。
 

表紙&巻頭インタビューが6頁にわたり掲載されています。
 

導入期のペダリングについて執筆しました。
 

特別企画「私のピアノ黎明期」にて、幼少時代(写真付)のことを執筆しました。
 

飯田有抄さんにモデルレッスン生を務めていただき、対談形式でレッスンの様子が6頁にわたり掲載されています。
 

誌上講座にてシューマン作品の指導法「ポエジーこそがシューマンの魅力であり演奏の難しさでもある」を執筆しました。
 

2014年の新譜CD《ピアソラの天使》(キングインターナショナル)です。
 

「きものMyStyle」拡大版で掲載されています。


2014年の新譜CD《ふたりのドメニコ》(キングインターナショナル)です。
 

「闘うピアニスト・赤松林太郎のきもの語り」第4回が掲載されています。エッセイと共に、冬のコレクションをお楽しみ下さい。


「レッスン密着レポ」で5頁特集されています。


「闘うピアニスト・赤松林太郎のきもの語り」第3回が掲載されています。エッセイと共に、秋のコレクションをお楽しみ下さい。


「闘うピアニスト・赤松林太郎のきもの語り」第2回が掲載されています。エッセイと共に、夏のコレクションをお楽しみ下さい。


「闘うピアニスト・赤松林太郎のきもの語り」という連載ページが始まりました。エッセイと併せて、私のきものコレクションそお楽しみ下さい。


男のきもの特集で「おしゃれ達人の『男』の着こなし」として1頁取り上げていただきました。


2010年の新譜CD《My dear Hungary!!》です。


等伯没後400年の2010年、彼の代表作『松林図屏風』に寄せたエッセイが「別冊太陽」(平凡社)で掲載されました。


別冊付録「プチ・モス」の表紙になりました。


メジャーデビュー公演前に、インタビューを全面記事で掲載していただきました。

[ MEMO ]

日刊スゴい人!
第402回(2011年7月15日配信/8月17日再配信)のスゴイ人!に取り上げていただきました。